IG Photo Gallery企画展
勝又公仁彦展 Kunihiko Katsumata
勝又公仁彦は写真のほか、映像、言葉、パフォーマンスなど複数の表現方法を駆使した作品を国内外で発表してきました。「わたくしのいもうと」は勝又の最新作です。
昨年、妹を亡くした勝又は、彼女の遺品の中に、失われたと思っていた家族写真の束を見つけます。彼女がなぜそれらの写真を手元に置いていたのかという謎と向き合うことを余儀なくされます。また、長く闘病していた彼女が生前、写真をやりたいという希望を持っていたことを知ったことも、強い印象を残しました。
「わたくしのいもうと」は勝又にとって、「硫黄島へ -玉砕の島Vol.1-」(2005年、銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)に続いて、直接的に私的な題材を扱う作品であり、身近な者の死という普遍的なテーマに取り組んだ作品となります。
展示はプリント、デジタルフォトフレームを用い、写真、映像、言葉によるインスタレーションとなる予定です。
また、最終日には「喪失と悲嘆をめぐる参加者による対話セッション」が行われます。作者が投げかけた問いに対して、鑑賞者がどのように応答するのかも、この作品の重要な一部となることでしょう。
作家の新たな試みにご注目ください。
「『わたくしのいもうと』展のためのステートメント及び状況説明」
人の死というのは生を受けた以上は当然のことであり、取り立てて語るほどのことではないのかもしれません。すべての人の生と死は個別の一回限りのものであり、それぞれがかけがえのないものだと思います。しかしその中に時に多少なりとも特異性をもった生と死を送った者が存在するでしょう。それでいながらその多くは語られることもなくまさに死の淵に呑み込まれていくように忘れられていきます。この場合の「特異性をもった生と死」とはいわゆる「天寿あるいは人生を全うした」とは言いにくい生と死のことです。折口信夫はその最後の学術論文である「民族史観における他界観念」の中で死者の霊を大きく二つに分類し、突然の死や非業の死、若年での死を迎えたものを「未完成の霊魂」と呼んでその鎮魂を図ると共に「完成した霊魂」への従属を解き放とうとしています。一人の人間の生と死はただ近親者にとってのみ重要な意味をもつことが通例ではあっても、その各所にその他の人々が抱えている、あるいはごく少数の関係者が知るのみで、一般の目には届かない隠された様々な個々のあるいは社会に通じる問題が内在していると、残されたものが感じた場合には、我々はその者の生と死を通じて何かを考えることができるのかもしれません。2005年に東京と大阪のニコンサロンで発表した「硫黄島へ」という写真と映像による作品は、第二次世界大戦において現今の日本領では最初の地上戦が行われながら取材当時はほとんどの人から忘れられていた硫黄島の戦いにて10代半ばで戦死した叔父を通して、その当時の日本を支配し戦後も姿を変えた形で残存し続けているメンタリティーと諸問題(それらは2011年の東日本大震災後に明確になり今も噴出し続けています)の暗示と、ジョー・ローゼンタールの写真「硫黄島の星条旗」とを絡めつつ複数の系の歴史に言及しながら縒りあわせたものでした。折口信夫が「未完成の霊魂」について本格的に考え始めたきっかけには養子の春洋を同じく硫黄島の戦いにて失ったことが大きく影響しています。このように私は家族のことを制作のきっかけやテーマとしたとしても、それが何らかの社会や文化の問題と関わっていなければ作品化することはありません。
2018年の10月に大阪のギャラリー176で行った「Polyphonic forest」という個展のインスタレーションをIG photo galleryでも行って欲しいという依頼をいただいておりました。しかし作品の形式には一定の自負はありましたけれども、ご覧いただいた皆さんの高い評価にも関わらず、私自身はそれに伴うふさわしい内容がまだ足りないように思っていました。そのため開催を保留にしていただいておりました。この度の個展にあたっては、その内容が多少なりとも発表をするに値するとは思いつつも、非常な自信や確信に基づくものではありません。いまだ調査と制作と思考の過程にあり、不完全な形で提示せねばならないということと、その題材はあまりに個人的なものかもしれず、自分が思うほどの社会性を持ち得ていないのではないか、私が胸を揺さぶらされるこの感情を観る方と共有するのは難しいのではないか、という疑念は残っています。それでもこの場所でこの展覧会を行うことの一つの理由としては、この世の全ての人間の中で最も心安く打ち解けて日々連絡を取り合っていた人間、私の末妹と現実の空間の中で最後に会ったのがこのIG photo galleryでの2018年春の私の個展の場であったということにあります。ベルクソンは空間よりも時間を重視した哲学者でありましたけれども、語られる内容よりも単に何かが言われている(形式がある)ということ自体でそれは「呼びかけ」となるといったことを書いているそうです。もしそうなのだとすれば今はただ語ることだけでも良いのかもしれません。そしてその語りは私一人が行うのではなく、語らずにいる多くの人々によってなされるべきだと思っています。その多声による交響の時間と空間こそがそもそものその形式の発案でもあり、今回行う展覧会と会期中のイベントとの関連性でもあります。
「わたくしのいもうと」というタイトルは宮澤賢治の詩から採られています。小学校5年生の頃、「松の針」や「無声慟哭」「永訣の朝」「青森挽歌」などの賢治が妹トシの死をうたった一連の挽歌群を読み、強く感動し、作文に書いたことを2019年の1月19日に思い出しました。それは私に妹がいるためで、妹をもつ人は皆その詩に共感するものと思っておりました。しかし今ではそれは少し違っていたのかもしれないと思っています。私は心のどこかで妹が先に亡くなることになる未来を予感し、賢治の詩の中でそれを先んじて体験していたのかもしれません。偶然というのは重なるもので、私は奉職している大学の業務として、オホーツクが会場の学外授業を翌夏に行う予定にしていました。賢治はトシを亡くした翌年の夏に花巻農学校の業務により北海道から樺太を訪れ「オホーツク挽歌」などの挽歌群や「銀河鉄道の夜」の着想を得ています。賢治が実際に見上げた深夜の夏のオホーツクの夜空を私もまた1人浜辺で見上げ、撮影しました。しかし賢治が歌い上げたような挽歌は私の能力では作り上げることはできません。また、賢治やその家族が死にゆく娘の看病をし最期を看取ったのに対して、わたくしの家族はその最期の日々の彼女の身体に近づくことは許されませんでした。それはいもうと自身がそのような姿を我々には見せてほしくないという彼女の配偶者との約束に基づいていたことと、それまでもあった危機を乗り越えてきたという義弟の経験と自信と信念からきていました。そのことを寂しく思いはすれど、非難するつもりはありません。義弟は医療従事者であるため長年に渡ってわたくしは安心して全てを彼に任せ切っておりました。治療の方針や医師や病院の選択、介護や日々のケアやアテンドを任せていたわれわれは、彼の献身のおかげである意味無責任な立場でいることができました。しかしその最期の日々を他府県の各々の家にてその状況を簡略に知らされるのみであったことは、駆けつけなかったことへの悔恨をわれわれに永遠に残しましたし、その日々の細かな事実及びそこに至る長い闘病の日々の暮らしと心中の葛藤と喜びと苦悩や懊悩などに対する様々な想像を巡らし続けること、そしてそのこと自体の重みと痛みの反復と継続とに繋がっています。突然の死には「永訣の朝」は用意されていないのです。
「いまだ調査と制作と思考の過程にあり、不完全な形で提示せねばならない」と先に書きましたが、この会期で行うことの理由を最後に記します。この展覧会は1月の10日から始まります。それは末妹の誕生日の翌日にあたります。昨年2019年の1月9日の誕生日、いつもと同じようにLINEでやりとりをし、例年と同じくお祝いを述べ、義弟からどのようなプレゼントをもらったのかなどを深夜22時前までやりとりをし、最後に彼女から届いたのは熊の顔に細身の人間の身体のキャラクターが「パァ」と言いながら一昔前の芸人風に両手を広げて片足を上げているというおどけたスタンプでした。進学のために上京し、成人し、恋愛と結婚を経た後に、その身体に潜在していた先天性ではあるが遺伝性ではない進行性の病が見つかり、以後入院手術と自宅療養を繰り返し20年以上の闘病の苦しみと異物を入れた手術による強い痛みとの闘いが続く中でも、彼女は家族の中の誰よりも明るくユーモアと余裕をもった態度をもって我々に対していたために、そのようなスタンプもまた平常のやりとりの一つとして何の不思議もないもの、あるいは敢えて言えば彼女のキャラクターに最もふさわしいものでした。
翌日の1月10日、わたしはいつものように、おはよう、のLINEを彼女に送りました。しかしいつまで経ってもそれは既読になりません。昼が過ぎても夜になっても既読にはなりませんでした。夕食を終えた頃、母から電話が来ました。いもうとは風呂場に倒れていたところを帰宅した夫に発見され、緊急搬送されて集中治療室にいるとのこと。自裁を企図して洗剤を飲み干したという意味のことを義弟に言ったそうです。妄想に侵されており、集中治療室で意識が戻った以後もそれが治らないまま、身体拘束もされたとのことでした。それから1週間はわたくし、そしてまたおそらくは家族も心ここにあらずで日々の業務はこなしながらも、実際のところは何も手につかずにおりました。後に知ったことですが、既に早くから統合失調症による通院闘病も続けていたということで、身体の病気だけだと思わされていたわたくしと家族の不明を恥じるとともに、そのような様子を微塵も見せることがなかったいもうとと、夫婦の固い意思にも驚かされました。ヘロドトスが書くように「身体が著しく害われている時には精神もまた影響をうけるのは驚くにはあたらない」わけですから、進行し続け身体を損ないつつもそれによって死ぬわけではない病とそのような病を負った自己の宿命と永遠に続く痛みと手術とに心が損なわれて行ったことは当然のことのように思います。健康であった半生のうちにできた自己イメージとの乖離にも苦しんだことでしょう。しかしまたその隠蔽には何らかの差別の意識が患者本人にもあり、それゆえに自己が差別あるいは忌避されることになることへの恐れがあったのではないか?という疑念も持たざるをえません。自らを身体と精神両方の障害者として嘲る文言や、障害者としての認定を疑問視ような言葉も残されていたことにもそれは表れていたかもしれません。わたくしはこのように単にいもうとの運命を嘆きうたうというだけではなく、自身にも彼女にも批判の眼を向けてきました。そのことは単にわたくしの誤解であるかもしれず、また他の家族や病や苦痛をもって生きている方にとっては厳しすぎる態度と受け取られるかもしれません。
搬送から8日目の夕方、身体の容体が落ち着いたため、精神病院に転院して療養することになり、2週間もすれば我々実家の者も面会が可能になるという連絡がきました。気持ちも安定して病院のスタッフにも大人しく礼儀正しくし一人で食事をとったとのことで、安心したのも束の間、その数時間後には心肺停止したとの連絡が来ました。看護師が目を離した間に、倒れていたとのことでした。元の病院の集中治療室に戻されましたがそのまま亡くなってしまいました。死亡宣告についての連絡がきたときの母の声は人間の声とは思えないような唸り声で何を言っているのか全くわかりませんでしたが、そのことでむしろ何が起きたのかが理解できました。私は自分でも思わぬほどの大きな声で驚きと叫びの音を洩らしました。周りにいた方々はびっくりしたかと思います。祖母や伯父の看護や葬送と整理とで15年以上を費やしてきた母が休む暇もなく娘の死に直面せねばならないことにも私の懸念は深まりました。いもうとの直接の死因が原因不明のため、また一連の状況の不透明さから病院から警察への通報があり千葉県警の介入がなされました。数年に一度の大手術を繰り返してきた傷だらけの身体のため、義弟は司法解剖を拒否したそうです。わたくしは数時間トイレに立て籠もって嗚咽していました。深夜であったこともありまた翌日は博士課程の担当学生の口頭試問に当たっていたたため、すぐに駆けつけるということはしませんでした。いまさら行って何になるのでしょう。
京都から車を運転し実家の家族をピックアップしたのちに、千葉県の婚家へと着いたのは数日後のことでした。道中母は「残念だ」でもなく「つまらない」でもなく何か不思議な表現の言葉を繰り返し呟いていました。私は運転に集中していたのと、あまりに印象的な言葉だったので忘れるはずもないと思い、メモを取らずにおりましたが、その後すっかり忘れてしまいました。母に至っては何か呟いていたことも記憶にないそうです。下肢が不自由でほぼ寝たきりのいもうとのために母は定期的に食料などを送り続けていましたし、正月には実家に帰る約束をしていため電話でコンタクトをとっていたので年末年始とそれ以後のやりとりの中でいもうとの状況の危険を察知していたようでした。いもうとが心待ちにしていた帰省は体調の悪さを理由に突如中止されました。のちに見つかったのですが、どうしても実家に帰りたい一心で、それを阻害するある症状が軽くなる薬を手に入れようと薬局で嘘をついてしまったことを気に病み、薬剤師に謝罪する手紙が粉々に破かれた状態で出てきました。誕生日の前日の通院では長年の主治医から病院を去ることを告げられ、今後は自分で医師を探して欲しいと言われたそうでした。それらのことと一人では帰れない身体になった絶望とに彼女の自裁は深く関わっていたようでした。そのように母のいる実家に帰ることを楽しみにしていたいもうとですが、そもそも彼女の病は母が原因とも考えられるものでした。先に書いた「先天性ではあるが遺伝性ではない進行性の病」は脊椎ニ分離とか二分脊椎と言われる病であり、母胎内で胎児が脊椎骨を形成する時に何らかの理由で形成不全を起こして発生すると考えられ、症状の軽重には差があります。近年では厚生労働省により成長に欠かせないビタミンB群の一種である葉酸の摂取が発症リスクを抑えることが呼びかけられていますが、当時はそのような注意喚起はなされていませんでした。ですのでいもうとは母親を愛しながらも、一方では知らなかったこととはいえ原因となったと思われる母親の妊娠時の栄養摂取状況に対する複雑な思いがあったようです。父母がそのことに責任を感じていたかどうかはわかりません。
母と上の妹は先に家に上がりました。駐車に向かう私の背に二人の悲鳴のような声が被さってきました。玄関には実家近くから撮影した富士山の写真が飾られていました。いもうとが娘のように可愛がっていた猫が、突然の訪問者に驚いて外に逃げて行きました。二階建ての一軒家でいもうとが日頃寝起きしていたベッドはシャッターの降ろされた薄暗い部屋にありました。遺体は数日が経っていたにも関わらず温かみが残っていました。表情が穏やかで苦しみから解放されたその顔はありきたりな表現ですが少女のようでした。上の妹は遺体に向かって何度も戻ってくるように怒りを交えて呼びかけていました。上の妹にとっては末妹の行いは敗北や逃避と思われたようでした。友人を必要とせず実家にいる彼女にとってもただ一人の心安らぐ話し相手であった末の妹の存在は大きなものだったと思います。そして私や末の妹の心に常にあってよく話し合っていたのは病に侵された末妹の痛みの苦しみや病状ではなく、上の妹の行く末の方にありました。重病であることを忘れさせるだけの人付き合いにおける心配りや健康さを末妹は持ち合わせておりました。わたくしは本当に彼女が病気であることを忘れて接していたのです。先行きの不明な私の不安定な仕事と生活を案じて、彼女は毎年成田山のお守りを送ってくれました。わたくしが彼女に病気平癒のお守りを送った覚えはありません。わたくしがしたのは身体の状況から就業ができないことを悩んでいたいもうとの作ったぬいぐるみを買い取って、お子さんが生まれた友人知人に送りつけていたことくらいです。そのぬいぐるみなど彼女が作ったものや遺品の一部も会場には設置されます。絵が得意だった彼女ですが、痛みで集中できないためか、残された作品は多くはありません。
遺体に対面したのちリビングに移った我々に、義弟は彼女が保管していた写真の束を取り出して見せました。そこにはいもうとが写っている写真はもとより、わたくしや家族が単独で写っているものも含め多くの写真がありました。わたくしは自分の子供の頃の写真は、湿気の多い実家の保管環境の悪さで全て失われたものと諦めていたのです。そのほとんどは忘れていたイメージでありながら、見覚えのある写真たちでした。わたくしが撮った写真もいくつかありました。結婚式の写真を撮ったのもわたくしでしたし、本格的に写真に取り組み始めた学生時分に最初にモデルになってもらったのも彼女だったことに気がつきました。発病する前の多くの写真たちをいもうとが保管していたこと、忘れていた多くの出来事がそれらのイメージとともに蘇ることに、わたくしは言いようもない思いでその場で写真を複写し始めました。いもうとがなかなか上がることができなくなっていた二階の踊り場には私が撮影した実家前の休耕田の夜の雪景色の写真が飾ってありました。結婚祝いにわたくしが贈ったものだそうですが、そのことも全く忘れておりました。額装された全紙のプリントのマットは日に焼けて変色していました。写真の中に光っている観覧車のあった遊園地で撮られた写真も先ほどの写真の束の中にありました。
火葬場の予約が混んでいたため、告別式はそれから10日以上経過したのちに行われました。最後に彼女の頬に触れたとき、わたくしはその冷たさに驚き初めてその死を実感して涙がこぼれました。体調が悪く通夜から加わった父は告別式でも火葬の後も泣いたりしませんでした。幼時から青年期まで肉親との死別を繰り返してきた父には娘の死さえも日常のことであるかのようでした。しかし、精進落としの席での挨拶でついに彼も嗚咽を洩らしました。父が人前で泣く姿を見たのは初めてのことです。わたくしはなぜか面白くて少し笑ってしまいました。義弟によれば、いもうとは写真を学んでみたいという希望も持っていたとのことでした。わたくしが教えているコースでは聾唖の方や肢体不自由の方や精神を病んだ方など障害をもった多くの方が在籍しています。もっと早く教えてくれればと思う一方で現実には通学は難しかっただろう、という冷静な判断も即座に湧いてきました。それは二人も同じ考えだったのだろうと思います。エイブルアートの活発化や障害者や肢体不自由のアーティストの活動や活躍、あるいはそういった方々の権利主張など、健常者との非対称性を埋めるような取り組みや実践、法整備などが進む一方で、そのような活動や思考をする余裕もない切羽詰まった状況のより困難な人々の声は届くこともなく呻きとともに消えていっているような気がします。
人々の過去の姿形や身体がなくなってしまった人たちの肖像を新しく撮ることはできません。しかし写真の中にいる、かつてその場所に、そのカメラとレンズの前にいた人々の姿を改めて撮り直すことは可能です。ネガが投影された暗室のイーゼルの上、揺らめく現像液の内にあらわれる像、L版のお店プリントに記された過去の日付をカメラやスマホで再撮する行為の中にわたくしは自問する相手を得、失われた時を感傷とともに見つめ、解き明かされることのない複雑な宿命を負いつつも誇り高く朗らかに生きたいもうとの人生と写真の謎とに日々向き合っています。
ステートメントと写真はnoteにて随時更新・追加されます。
https://note.com/kkatsumata
■作家プロフィール
勝又公仁彦(かつまた・くにひこ)
静岡県出身。早稲田大学法学部卒業、インターメディウム研究所修了。多様な被写体のもとで「時間」「光」「場所」「空間」「認知」などをサブテーマに、常に写真の構造に触れる作品を展開。日常の中に現象しながらも知覚されることの無かった世界を掬い取ることで、観る者を新たな認識へと誘うとともに、歴史・社会・文明への批評的な暗喩を込めた作品制作を続けている。主な展覧会に「サイト―場所と光景:写真の現在 2」(東京国立近代美術館、2002年)「Natura Morta 」(Leica gallery Solms、2006年)「Dwelling」(世田谷美術館主催、2008年)「都市の無意識」(東京国立近代美術館、2013年)「あいちトリエンナーレ2016」(岡崎康生会場、「トランスディメンション ─イメージの未来形」、愛知、2016年)「写真都市展 ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち」(21_21 DESIGN SIGHT、2018年)など。主な受賞に、「さがみはら写真新人奨励賞」(2001年)、「日本写真協会新人賞」(2005年)。東京国立近代美術館、世田谷美術館、沖縄県立博物館・美術館など国内外の主要なコレクションに作品が収蔵されている。京都造形芸術大学准教授。多摩美術大学非常勤講師。
http://www.kunihikokatsumata.com/
■会期
2020年1月10日(金)~2月15日(土)
時間:12:00~20:00(1月14日は19時まで)
休廊:日曜日・月曜日・木曜日・祝日(2月11日)
■映像・機材協力 井上雄輔
■トークセッション
2020年1月11日(土)18:00~
勝又公仁彦×タカザワケンジ(写真評論家、IG Photo Galleryディレクター)
動画:https://youtu.be/Gj2VSa0idn8
■「喪失と悲嘆をめぐる参加者による対話セッション」
2020年2月15日(土)15:00~
予約不要、入場無料
入退場自由
セッションの模様は録画公開される可能性があります。