実験映画プロジェクト
「Experience in Material Film collection 2」上映会
『沈黙のための映像 Excerpt 003』 ©2019 立川清志楼 |
『Magdas Hotel 317』 ©2019 三田村光土里 |
『Leave』 ©2019 井上雄輔 |
『Silent Sound』 ©2019 小松浩子 |
『Physical Psycho Education』 ©2019 金村修 |
IG Phto Galleryでは2019年12月28日(土)の1日限りのイベントとして、実験映画プロジェクト「Experience in Material Film collection 2」の上映会を行います。
「Experience in Material Film collection」とは映像作家、写真家の立川清志楼がプログラム・キュレーションする実験映画の上映会です。今年7月にシアターイメージフォーラムで1回目の上映会を行い、11月に横浜美術館レクチャーホールで2回目の上映会を行っています。今回IG Phto Galleryでは横浜美術館レクチャーホールで開かれた2回目の上映会を巡回いたします。
1877年にエドワード・マイブリッジが走る馬の連続撮影に成功し、映画が発明される端緒の一つになったように、写真と映像は古くから深い関係にありました。現代においても写真家が映像作品を手がける例は多く、とくに現代美術の文脈で写真と映像を用いたインスタレーションが盛んに発表されています。写真表現の現在を考えるうえで、実験的な映像作品の上映機会を設けることは、写真ギャラリーにふさわしい試みだと考えます。
「Experience in Material Film collection 2」で上映されるのは5人の作家(金村修、小松浩子、三田村光土里、井上雄輔、立川清志楼)の作品です。共通するのは、非物語で触覚的映像であること。「非物語」と「触覚的」という要件は、商業的な映像に飼い慣らされた私たち現代人の視覚への挑発的な批評行為であると言えるでしょう。
「言葉には、一つあるいは、限られた焦点しか存在しないが、物質には本質的にいって無限の焦点が...つまり焦点は存在しない。物質は人間の意識と本質的に無関係に存在している。その無関係性から、物質の複雑で豊かな謎が発生する。」美術家・高松次郎は著書「世界拡大計画」(2003年/水声社)で記している。物質が人間の意識と無関係に存在するならば、物質の本質を二次元化するためには、物質を無意識でとらえなければならない。機械式カメラによる撮影行為ならば、それが可能なはずである。それならば撮影された映像には、無関係性が再現されるだろうか、それともそこに新たな関係性が形成されうるのか。映像による「無限の焦点」を探求する試み、それが「物質試行」である。
■上映作品(8作品96分)
「沈黙のための映像 Excerpt 003」 立川清志楼/デジタル/9分/2019
「沈黙のための映像 Excerpt 004」 立川清志楼/デジタル/13分/2019
「Magdas Hotel 317」 三田村光土里/デジタル・サイレント/13分/2019
「Leave」 井上雄輔/デジタル・サイレント/13分/2019
「NO PARKING」 井上雄輔/デジタル/8分/2019
「Silent Sound」 小松浩子/8ミリ・サイレント/20分/2019
「Physical Psycho Education」 金村修/デジタル/10分/2019
「Topless Beaver Drive」 金村修/デジタル/10分/2019
作家コメント
■立川清志楼(写真家・映像作家)
編集技術の進歩とともに付加された過剰なイメージの緊縛に多くの映像は拘束されている。これは映像への暴挙である。過剰なイメージの破壊、普遍的意味性からの脱却、物質性の促進により映像は自立しなければならない。自立した物質が覆い尽くした画面に自立した時間が流れるのだ。
■三田村光土里(現代美術家)
古い書物に残された歴史の断片を追いながら、意識は過去に続く階段を下りるように時間を遡る。ウィーンで過ごした冬の記憶の輪郭はぼやけ、螺旋型をした印象だけが残像となって私の中に映し出されていく。
■井上雄輔(写真家)
ループするように一定の速度で繰り返し現れる車両を見ていると、時間感覚が麻痺するような錯覚に陥る。システム化され、ネットワークとして振る舞う都市。そこでは、ルールから外れた不規則な動きが異質に見えてくる。まるで別々の時間ベクトルが混在し、時間が歪んでいるように見える。
■小松浩子(写真家)
非常に静かな環境に身を置くと自身の身体の音が聞こえてくる。それらの音に意識を向けていると、今聴いている音が外部から来るものか内部から生じているものかわからなくなり、身体が空気に溶け出していく感覚を覚える。
■金村修(写真家)
舞踏家の室伏鴻の日記に、ダンサーの身体は自身の「内と外を連結し合いながら動いている」存在だと書かれていました。それは、身体はわたしという単数の存在に所属するのではなく、内と外の往復の運動に存在するものであり、二重化、複数化された身体の状態を生きることがダンサーの身体なのだという意味だと思います。
自分の身体を完全に制御するのは、ブロのダンサーにとっても難しいのではと思うのです。むしろ自分の身体とは一つの大きな謎であり、理解不可能なことの方が多いのではないでしょうか。自分の意思で制御することができない身体。自分の身体とは一つの物質であり、他者的な存在なのではと思うのです。カミーユさんはプロのダンサーですから、自分で制御できるところはわたし達よりも多いと思うのですが、制御不能な部分もかなりあるのではと思います。制御可能な部分と制御不可能な部分が連結しながら動いていく。それは自分の領域とその外部、内と外の領域を交互に出入りするという感じがするのです。そういう意味ではダンサーの身体というのは、固定されている存在ではなく、流動的な身体なのではないでしようか。わたしはダンスに関しては素人なのですが、カミーユさんの撮影をしている時に、地球の重力によって地上に固定された身体とそこから飛び出ようとする身体がクロスしながらそこに存在しているような感じを受けました。
■日時
2019年12月28日(土)15:00~/17:00~
*予約不要 定員25名、入れ替え制。
■観覧料金 1000円
■会場
IG Photo Gallery
東京都中央区銀座3-13-17 辰中ビル3階